昭和42年01月29日 朝の御理解
あの時分にもう少しましな信心が自分に出来ておったら、自分も助かり人も助かっていったであろうのに、といったような事が段々、皆さんにはございませんでしょうか。あの時分に、私に現在の信心が出来ておったら、あの人も助かり私も助かっておったであろうのにと。信心を段々進めてめてまいります、色々あのそこんところが分からせて頂くのでございますが、お道の信心を頂いたら。
まぁ結論いたしますと私が助かる事なんですけれども、私が助かるという事は、神様も助かって下さり、私に関係のある人も助かっていかなければ駄目なんです。自他ともに助かる。私が助かるということはです、私がおかげを受けるという事は、神様もおかげを受けて下さり、神様も助かって下さる。氏子が助かるだけで神が助からんとこう仰る。ね、氏子の苦しみは神は又苦しみでもあると仰る。
ですから、私共助かる事によってです、やはり神様も助かって下さるのですけども、それと同時になら私の周囲の人達も、私に関係のある人も皆助かっていかなきゃならんのです。自他共に、いわゆる助かって行かなければならない。そういう助かり方というものがです、本当であれば本当であるという事が分かれば分かる程、ほんにあの時分に私の信心がもう一段進められておったら、あの人も助かっておったであろうのにと。
もうちっと良い結果が生れておったであろうのにというような事が、まぁ後悔ですけれども、それを感じるのです。久留米の三橋先生が丁度私の、ここで5年祭を仕える頃まで、一生懸命信心の修行されましたし、それからその翌年でございましたでしょうかね、亡くなられましたのは。あの時分に、毎日椛目通いをしておられる時分に頂いた教歌ですね、御教えのまぁ歌に「波紋広げて沈みゆく石を又投げぬ。
めぐりの底を知らぬ人の心に」というのがございます。「波紋広げて沈みゆく石を又投げぬ。めぐりの底を知らぬ人の心に」もうそれこそもう悲しいまでに自分の信心の不甲斐無さを、もうこれは私自身が感じておる、こりゃまぁものが、その歌の中にまぁ現れておると思うのです。いくら言うても、いくら言うても分からん者に又波紋を広げながら、それを言うてしもうた。
あんたこげな事でどうしておかげが受けられるねって。ね、こうじゃろうがって、あぁじゃろうがってもう私がもうそれこそ、もうあの人の膝を叩きながら私が言うんですね。先生自身もそれこそ涙を流して聞きよるんです、そうです。私はそこんところば改まらにゃでけんとです。と言いながら改められんのですから。場合によってはそれに抵抗を感じたんですから。
ほりゃ親先生が、又三橋先生に喧しゅう言いなさるという、そういうような意味での波紋も広げて行った事でございます。本当にあの時分に私の信心が今、この現在の位にでも出来ておったらです、ね、例えばあぁいう悲しい結果にならなかったかもしれない。で私はそれを後悔いたします。同時に、本当に御霊様にその事、その時分の事を思うてみれば思うてみる程、お詫びしなければおられない気がいたします。
ですからここんところはですね、例え、例えそげな事ではおかげは受けられまいがと。例えば、なら子供が子供に、なら親がいうのですから決して間違いありません。親の意見と茄子の花はそれこそ千に一つのあだは無いのでございますから、ね、どうぞ子供が助かってもらわんならん、子供も又将来おかげを頂いてもらわんならん。折角私は親先生というてここにある言うて頂いて。
しかも私の信心をです体得してもろうて、なら取次の御用にでも立たせて頂かんならんと言うあんたがです、そげな事でおかげの頂けるはずがないじゃないかと。いかに言うても、そして場合によってはそれが、そうですと合点がいっても、又は場合にはそげんああたはいいなさるけれどもと言うて抵抗をするといよいよ歯がゆい思いをしてそれを、その石を投げておったという事がです、ね。
ただ波紋を広げて、そしてその自分自身の本当の巡りというものも知らずに。あんたのめぐりは、それこそ私と神様しかしらん。あんた家にはもう親でん家内でんしらんよっち言うて、私が三橋先生に言いよりましたそれ。もう実にですね深雑なそれこそ心の中に、もうそれこそ何かこう鉄砲ん弾でも追い込むような、事だったと自分で思うのです。一番痛い所に触れてるのですから、長年連れそうとる家内でん知らんばい。
ほんの知っておるのは私と神様だけだと。そこをあんたが改まらなければ駄目だと、例えばそういういくら言うてもそれが本当であってもです、相手に受け入れられなかったり、帰って来たりしたんでは、何にもならんでしょが。そこにです私自身がもっともっと助からなければならないということがあるのです。そうであれば有るほどにですそしてなら御祈念をさせて頂いたり、その事を願ったりさせて頂いておりますとです。
結局は私の教導不行き届きであり、私が分からせきらんのであり、私がもう一段、私がもう一段信心を進めて行く以外にはない。という事に煎じ詰められてしまうのですよ。お道の信心はですね、もうとにかく私が助かる以外にはないですね。子供じゃないです、ご信者さんじゃないです。それは確かに私の言う事が本当でありましてもです、私が詫びて詫びて詫び抜かせて頂いて。
そしたら私がお詫びと同時に改まって行って、進んで行くところにです、私も助かればいわば私の周囲の人達も助かって行くというところのおかげを頂かなければ本当のことではないと思うです。けれども、本当にそこから、その辺が実にデリケートなところがあるんですよね。もうその人のために修行をする。ね、この人は助かってもらわんならんと思うから、その人のために、なら自分が修行させてもらう。
昨日でしたか大和さんが毎日朝参りにこうやって見えられます。もう一月後にあちらの、謝恩祭が仕えられますから、まぁそれまでは一修行というような意味もございましょう。ですから先生、最近はもう自分に気が付く事だけは、気の付かせて頂いた事は全部修行させてもらいたいとこう思うと言う。あそこも、ここもこうと。又は修行にも様々な修行があります。ね、
だから自分の心に浮かんで来た修行はもう片っ端からさせて頂こうと思うという、一つの勇猛心を持ってその修行に取り組んでおられるわけなんです。ところが先生その修行を始めますとですね、今度は修行いしてない家内やら、親やら自分の周囲の者にしっかり修行しとらんもんじゃけん、それが歯がゆうなって来る訳なんです。そうなんですよ、私共ようそれは体験させて頂いたことです。例えば私断食をしよっですかね。
そすと他んもんな腹いっぱい食べよるわけ。お前達のために俺はこげな修行しよるとぞと。ほんなこて、大坪の家が立たんなんけんと思うて俺はこげな修行しよるとぞ。まぁ二十何年前の話なんです、いうなら。それに子供なら腹一杯食べよった。して私は食べよらんもんじゃけん、まぁせめて御汁くらいならよかろうもんあんたっちいうてから持って来るわけです。もうその御汁ばけっ散らそうごとある。
食べん事は分かっておるじゃないかと。というようにですね、例えばそこんところを本当に大和さん自分が助かって行っていくということは難しい事ですもんね。とにかく自他共に助かって行く事、というてまぁ昨日、そんな意味のような事話たわけですけれどもです。私が助かる以外にはない。私がおかげを頂く以外にはないと思うから、私は修行を初めとるとです。けれども自分の周囲の者が、それに修行に付いてこん。
まぁついてこんと、もうそれが、歯がゆうて歯がゆうてたまらん。だから、俺がこげんしよるけん、お前達もついてこいと、言わんばかりの事を、心に思い、言うたりしておる。誰もついちゃこん。それが又歯がゆい。だからこの辺のところがです、豊かに大きな心にならせて頂かなければ、出来るこっちゃないなぁと、こう思うんです。そして次に、私は思う事です。ね、
本当にその人の為に自分が修行させてもらう、それは自分自身が助かる為でもあるんですけれども、助かって行くうちに自分が豊かに大きくならせて頂くおかげを頂く以外には、大和さんないですばい。自分の心が豊かになる。そこにです、例えばなら風が自分の、風の力を持って旅人の外套を剥ぎ取ろうとしたけれども、旅人はいよいよその外套をかたく自分の身に付けていったと。
お天道様はそれとは反対に、暖かい柔らかな光を、その旅人に送ったと。何時のまにか旅人がその外套を脱いでしもうたという、あのお話をですね、もう一遍私共はここに頂かせてもろうてから。そういう歯がゆいけれどもです、そこんところを自分の修行不足と思うてそれをおかげ頂いて自分の心が豊かになっていくうちにです、豊かな暖かい心というものを、そのもうこの人ばかりいくら言うたっちゃ分からん。
もうこの人の性根の悪さじゃろうかと思うようなその人にです、暖かい豊かな心を送ってあげれるだけの信心です。これと二つの信心が出来ていかなければならないという事です。暖かい心を送っていこうという心と。同時に自分自身という者を厳しくです、いう、私が助かる以外にはないのですから、私が修行する以外にはないのだ。ね、そういう時に、とにかく椛目じゃ。
あんたはここんところをおかげ頂いていかなければ、私がいう通りしなければあんたいんま違わんごとおかげ落とすよと。これでは助からなかったです。私も助からなければ、なら三橋先生も助からなかったです。ね、だから今私が皆さんに聞いてもらっておるような心の状態でです。私は三橋先生に接しておったら、もっと久留米には新たな、別な運命が開けておっただろうとこう思うです。
本当に神様にも相済まない。御霊様にも相済まん事だとこう、もう今朝からその事をしきりに感じさせて頂いたんです。言うても何ごつ言よのと例えば相手から跳ね返ってくるような事をですね、言うたっていくらどんなにそれが正論でありましてもです、それは波紋を広げて沈むゆく石を又投げぬ、であります。波紋を広げて行くだけです。その人自身が本当に助かろうと気にならなければ。
めぐりの底はそれこそ、底無し沼のようないわばめぐりを持っておるんだもん、こちらが言うたぐらいの事じゃ分かるはずがない。神様が分からせて下さらなきゃ分かるこっちゃないから、そこを祈って行くという事は、暖かい心を持って送って行くというんですよ。そこに自ずと自分自身のめぐりの自覚を悟らせてもろうて、これじゃいかんという発心も、本人が起こるだろう。
なるほど親先生が言いなさる通りせにゃという事にもなってくるだろう。ここんところに、私は自他共に助かる道があると思うんです。いや、そこに焦点をおいたところの自他共に助かるじゃなかららなければです、神も助かり氏子も立ち行くという事。そして私に関係のある人も助かって行くといったような事にはならんと思うですよね。
どうぞ。